新劇の歴史
私たちの会は、1960年の発足当時から劇団とともに一緒になって歩んできた歴史があります。
鑑賞会が例会を一緒につくってきた劇団は、「新劇運動」から始まりました。
明治維新後、新政府は他分野と同様に演劇の近代化を働きかけます。坪内逍遙、島村抱月らが、西洋の近代演劇の導入を試み『ハムレット』や『人形の家』など海外翻訳劇を上演。市川左團次と小山内薫は、ゴーリキの『どん底』を上演しました。近代写実主義と社会問題を扱った翻訳劇は、新鮮な感動を与え、歌舞伎、新派劇に対して「新劇」と呼ばれるようになりました。日本の演劇人たちは、西欧やロシアに留学し、先進的な演劇を学んでいきます。
内容や方法だけではありません。江戸時代の歌舞伎には、興行主(小屋主)や芝居茶屋の利益も大切にする、いまでいう商業主義的な面がありました。劇場の仕組みや演劇のあり方も変化が求められていきます。
これらの運動の背景には、1914年の第一次世界大戦や、1917年のロシア革命があり国際情勢と日本国内における資本主義の経済発展に伴った社会的矛盾などが影響したと言われています。
築地小劇場の誕生
日本演劇の大きな分岐点は、1923年の関東大震災です。この震災で東京の商業劇場は壊滅。その報せを受け、ドイツに留学をしていた土方与志は帰国を決意します。「焼け跡に小劇場を建設し、それを根拠とする劇団を組織する」、焦土と化した東京に「興行資本に毒されない理想的な小劇場」をつくることを考え、私費で築地小劇場をつくります。
設立同志の小山内は、築地小劇場発足宣言に「演劇のために・未来のために・民衆のために」と述べ、「反商業主義」を掲げました。劇場には俳優の養成も行う日本型の付属劇団も生まれました。
この築地小劇場からは、丸山定夫・千田是也・滝沢修・久保栄・山本安英・杉村春子など、日本を代表する演劇人が排出されていきます。
しかし築地小劇場が出来た翌年、治安維持法が制定され、日本は戦争の時代に入ります。厳しい検閲、上演禁止、強制解散、演劇人の逮捕・投獄、といった弾圧が熾烈をきわめ、民主的な芸術・文化運動は壊滅的な打撃を受け、自由な演劇創造は出来ませんでした。戦時下の演劇活動は、戦意高揚を目的とし、移動演劇隊として各地を巡演することしか出来ませんでした。文化座は慰問先の満州で終戦を迎え、桜隊は広島で被爆する悲劇が起こります。
新劇団の想い
弾圧されてきた新劇団は、戦後、再び立ち上がり、次々に新しい劇団も誕生します。それらの劇団もまた、築地小劇場の精神を受け継いだ人たちであり、新劇は誕生したときから一貫して「反商業主義」でした。
先進的な演劇文化を学び、ときに権力に抵抗し、日本演劇の革新と、芸術創造の自由を追求してきた新劇団の歴史。新劇の創造活動の精神的支柱には、近代的な人間観の確立、反商業主義、反体制、反戦平和があります。
演劇鑑賞会の誕生
1949年、東京で上演された芝居を大阪の地で観続けたいと会員制の鑑賞会・大阪労演が出きました。その後、各地に鑑賞団体が生まれ、1963年に全国労演が生まれました。このときから、鑑賞団体は、新劇団とともにあることを宣言しています。
福島演劇鑑賞会は、1960年、劇団俳優座『巨人伝説』を例会に迎え、568名の会員で発足しました。こうして福島に演劇鑑賞団体が生まれましたが、決して平坦な道ではありませんでした。
ひとつは財政の問題です。はじめの頃は、今のように「会員手帳」はなく、チケット販売に近いような活動でした。代表者がチケットを持っていき、そのチケットを買った人を会員数として数えていました。例会によって会員数が大きく変動し、有名な俳優が出るときは会員数が多くなり、そうでないときは少なくなります。これではとても財政が成り立ちません。役員は例会を観ずに劇団とお金の相談ばかりしていたそうです。劇団への未払い、会費の前操り、例会数の減少…。券売動員廃止と会費前納制が提起されましたが、うまくいきませんでした。
1980年、ようやく「会員手帳」に移行し、すべての会員を会員名簿に登録しました。会員手帳が出来たことで会員も継続して観続ける会だということがより目に見える形になりました。また、この年、縦型の組織を見直し、「運営サークル」が誕生します。